【公式】鬼門除稲荷 北条時代から続く由緒ある神社
大稲荷神社の由来伝記によれば小田原城北条時代に修験者が旧竹ノ花地区内に修験堂を建立した。
武田家の臣曲淵氏が主家滅亡後徳川家に随身この地を采地として賜り、修験堂に稲荷大明神をおまつりしたことに始まり、その後天正十八年(西暦一五九〇年)初代大久保忠世公小田原城主となり、京都伏見稲荷大社の最北座田中大神を合祀し信仰ことに篤かったが、
子忠隣公の時に幕府の忌諱に触れ改易となり、それ以来永年に亙り祭祀するものも無く荒廃にまかせた。
貞亭三年(西暦一六八六年)忠朝公小田原に帰藩が許され、その子忠増公の時に家臣清水氏の妹並びに側近内芝氏に御神託あり、その御告げに従い小田原城の鬼門除稲荷として再興したため、忠増公には老中執政職に昇進その御神徳の崇高広大にしてそのあらたかさに恐懼感激し、
宝永三年五月(西暦一七〇六年)現在地の谷津山に御社殿を造営せられたものである。
「新編相模国風土記」によれば、旧谷津村の守護神であった。
天平宝字年間(西暦七五七年)、夢中道人の創建で愛宕山(小田原駅西口にある山)の山上にあった。
本地勝軍地蔵は夢中道人の自作と云われている。
元暦中、蓮上院の僧堅雅再建。暦応二年(西暦一三三九年)足利尊氏建立。現在の社殿は本殿のみが大正末期遷座されているが、江戸に幕府が開かれた時に、拝・幣殿を江戸の愛宕山に移築してしまい、本殿のみが残されたものであると伝えられている。
御手洗石には講中江戸赤坂田町五丁目と刻まれている。
「新編相模国風土記」によれば錦織明神社、古験者火定せしを祀り西郡明神と唱う。
慶安年中、領主の命により、今の字に改めしと云う。例祭十一月十七日、神体は修験者の形なり。町内持。
とあり、もとは須藤町の「かどや」の隣にあったものを大正三年に境内に遷座した。
寛永十年(西暦一六三三年)正月二十一日の大地震により小田原城は大破、領内の足柄上下は特に被害甚大であった。
小田原藩主稲葉美濃守は領内の復興のため過酷なる年貢を取り立てた。
農民は塗炭の苦しみに喘ぎ暴動を起こしかねない状態になった。この時に上郡関本村名主下田隼人
は一家の全滅を覚悟の上で年貢の軽減を藩主に直訴をし、万治三年(西暦一六六〇年)一二月二十三日処刑されたが隼人の一念は見事に達成された。
生前隼人は城下に出向いた時には須藤町の郷宿を定宿としていたため、須藤町の人々と自然親密な関係にあった。
そこで町内の人々は共に西郡の為に身を投じた隼人の義侠を徳として、比の社に秘に併せ祀ってきたものである。